Home>Player>菊池 健彦

Playerプレイヤー

経歴詳細

1959年
4月11日青森県、林野庁職員の父親と専業主婦の母親の間に長男と して生まれる。O型
1962年
4月幼稚園入園。父は弘前出身、母は東京出身、家庭内ではどういう訳か標準語で喋っていたらしく、まわりの子供が話す下北弁が理解出来なかった為、園児とのコミュニケーションが上手く取れないことから登園拒否になったらしい。幼稚園の園長先生が自ら自宅まで迎えに来てくれたが、物置に閉じこもり中からカンヌキをかけて断固抵抗。その後は、幼稚園に通わなかったと記憶している。
1966年
月大間小学校入学。翌年2年生の時、父親の仕事の関係で青森市立沖立小学校転入。勉強は良くできたが、忘れ物が多く母親が何時も準備してくれるにも拘わらずハンカチ&ちり紙を忘れたり無くしたりで、持ち物検査では、いつもクラスでワースト1だった。5年生の時、転校してきた綺麗な女の子、佐野のぶ子さんに淡い恋心を持つ。初恋だったが、仲の良かった友達に「彼女が好きだ!」と先に告白され、自分の気持ちを言えずにいた。後に自分も好きだと言うことが皆にバレ気まずい思いをする。
1972年
青森市立沖館中学校入学。剣道部入部3年間在籍。市内では剣道の名門だったので入部したが、厳しい練習の連続で退部する生徒が多く決して上手くも強くもなかったが、いつの間にかレギュラー選手に繰上げられ運良く中体連に出場、団体で決勝進出する。学業成績は良かったものの、授業中はノートも取らず宿題もしない生徒だったので(宿題をしても忘れて持っていかない、無くす等)先生に「お前は人間のクズだ!」と言われるが、特に何かに反抗していたのではなく、単にずぼらなだけだった。後にこの誤解は解けたように思う。

中学卒業する頃、父親が熊本転勤になるが、転校するのも面倒だっ たので下宿生活をはじめる。苦手なことは入浴と洗濯。 3ヶ月間風呂に入らない記録と1ヶ月間同じパンツをはき続ける記録を達成。
1975年
青森県立高等学校入学。TOP5は東大合格という名門校(太宰治や秋葉原無差別事件の容疑者も卒業生)司馬遼太郎作品、「坂の上の雲」「竜馬がゆく」等を夢中になって読み漁る。当時、威張り散らす英語教師が嫌で英語嫌いになるが、受験英語の勉強をしている内に自然に好きになっていった。この頃から面倒な事は避け、何事にも受身の生き方に傾倒していく。

夏休みに両親のいる熊本に行った時、バス乗り場で両替しようとしたが熊本弁が理解できず、相手もこちらの話す青森弁が分からない。相互の言葉が全く通じず、この狭い日本で「何んてこったべ!」とショックを受ける。
1978年
北海道大学文学部・ロシア語学科入学。札幌の下宿は食事がとても美味しかった。学生時代は、ただひたすらロシア語の勉強に没頭した。ロシア文学や歴史に興味が有ったのではなく、ややこしい文法を解き分析する事が楽しかった。ひとつの形容詞が修飾される名詞の格・数・性によって24個の形に変わるという、英語とは対照的な論理性に魅せられる。当時のロシア語の会話能力は、現在の英語会話力を上回っていたであろう。
1983年
就職活動は面倒だったので一切やらなかった。助手の先生の紹介で、洋書専門店に入社、営業担当になる。洋書を紹介しオーダーを取るのが営業の主な仕事だったが、5000万円のノルマで1500万円の受注がやっとだった。同僚は次々ノルマを達成し成果を上げていく中、喋ることが苦手だったので、毎年営業成績は散々だった。当然、彼女など出来るわけがなく公私共にやりたいこと等、何も無くて段々独りでいることが楽になり周囲から諦観して行った。

34歳 追い詰められ退社。
独学時代(引きこもり時代)34~41歳
最初の1年間は何もする気になれず時間を過ごしたが、ある日何気なくNHKの海外コメディドラマを見ていて「これは面白い!」と思った。漠然と市場の大きさを考えると英語が出来れば、いずれ就職か何かの時に役立つだろうと思い、突然、独学英語学習を始める。学んで行く内にボキャブブラリーと発音体系の奥深さに改めて気づき、どんどん興味が沸いてきて英語学習に没頭して行く。毎日12時間は勉強した。  勉強していると時間が経つのも忘れるほど集中できた。特にリーディングは英語学習の要と考えTIME・Newsweek・Economist等、海外雑誌を何となく読めていたが、何時間もかけて一字一句、正確に読むことに重点を置き知らなかった単語をひたすら覚え、辞書無しでもかなりスピードUPし正確に読めるようになった。しかしリーデングの勉強中、英米の主要雑誌に掲載されている記事を読むうちに、日本人に対する理解不足や誹謗中傷とも思える日本非難の記事を度々見つけるようになる。また、そのような記事に対する日本人の無反応ぶりも気になったが、自分としては黙って見過ごす訳にいかず、編集部に文化の違い等の理解不足について意見を投稿するようになる。英米メディアの日本人叩きは紋きり型で大きく2種類に分類できた。ひとつは「日本人全体が極めて閉鎖的で歴史的に外人恐怖症を未だ克服できずにいる」というもので、典型的なものは下記のようなものであった。

ソビエト連邦共和国がロシアになり日露貿易を反映、小樽にロシア水兵が多く上陸していた頃の話である。当然のことながら多くの文化的摩擦が生じてきたが、深刻な問題のひとつに銭湯で日本の伝統的銭湯マナーを知らない(石鹸やシャンプーを風呂の湯の中で使う等)水兵達と地元の馴染みの銭湯利用客との間でひと悶着があった。銭湯主が何度注意しても風呂の使い方を改めない外国人に対し、銭湯主が「日本人専用!」「外国人お断り!」の張り紙をしたところ、この件を知った英・アメリカ人記者達は背景となる事態を無視し大きく逸脱「銭湯主を外人は臭い!汚い!と信じている愚かで頑固な日本人の典型」「日本人は未だに鎖国のこころを持ち続けている」と伝えた。このような偏向的な報道には、英文で抗議の手紙を編集部へ送った。

もうひとつの日本人叩きの典型は「日本人は集団でしか動けない、個人としては何も考えられず何の思想も持たない、事大主義者体制順応主義(Conformist)である」と決めつけるものである。 「The famously conformist Japanese nation」の記事にもレポート用紙3枚にわたり偏見に対して出来る限りの反論をした。

時には尊敬する坂本竜馬の「世の人は我を何とも言えば言え、我ためすことは我のみぞ知る」を英訳し「Hey, people in the world, say all you want. I know what I'm doing. That 's all I want.」を引用した事もあった。

引きこもり時代には投稿することが、唯一、世間との接点であった。世間からすると一種異様とも見える引き篭り独学生活であるが、本人にとっては素晴らしく充実した毎日だった。一日の食費を500円に切り詰めサラリーマン時代の貯金で、何とか食い繋ぎ独学生活を享受していたが、とうとう7年目に貯金を使い果たし引きこもり生活に終止符を打つことになる。
講師時代 42~50歳
7年間、引き篭もり学習した英語を生かす職業は何か?を考えた時、英語講師の仕事が真っ先に浮かんだ。英語講師の就職活動をするまでTOEIC の存在自体知らなかったが、履歴書には必ずTOEICの点数が必須なのでTOEIC TESTを受けることになる。準備などしていなかったが、試しに受けたら970点をマークした。実はこの頃まで、英語を話すネイティブ(外国人)と話をしたことすら無かった。 これを機に英語講師の職を得てTOEICのスペシャリストとなり、以後TOEIC990点満点を69回取得し続けている。

独学時代と比べ英語学習に充てる時間は大幅に減ったのが、現在の悩みだが真摯に英語を学びたいという若い人達に尽力できるのは、大変嬉しく思っている。34歳から引きこもりをきっかけに学び始めた英語であるが、独学でここまでやって来た勉強法を伝えることで、英語学習の成果が出ずに苦労している多くの人達、時間と大金をかけながら諦めてしまった人達に、是非、この壁を超えて貰いたいと願っている。

また、最近もある著名な雑誌に「日本はあれだけアジアで悪いことをしてきたのに広島・長崎の被害者になったことで無罪放免になったと考える歴史に目を向けない愚かな国民集団である。」という主旨の反日とも思える記事が掲載されていた。これまでは論破の英文を作成し自ら出版社へ送り返していたが、今後は自分の意見を英語と言うツールに乗せ、世界に発信できる若者を育てていきたい。 50歳になり、新たな挑戦をしようと思っている。

海外渡航経験なし。(パスポートはTOEIC試験の身分証明書の為に取得。)

趣味:ジョギング。独身。